福祉の”通訳者”でありたい 株式会社アクセス 代表 田端千英さん

インタビュー

雨降りの4月某日。京急線糀谷駅から徒歩15分。
株式会社アクセス羽田事業所は多摩川に面した、静かな住宅街の中にありました。
私たちが到着したときには、ちょうど、デイサービスの送迎スタッフの方が、利用者さんを建物内にお連れしていたところでした。私たちに気づくと闊達な笑顔で「どうぞー!」と招き入れてくれました。

社長の田端千英さんとは、以前田端さんが運営していた高次脳機能障害者のためのデイサービス『リーベ』に、私たちが見学に伺ったときからの御縁です。

今回は、アクセスの建物を見学しながら、大田区内で高次脳機能障害の方に理解のある介護サービスを運営する経営者、田端千英さんに、その生きざまを語って頂きました。

「こんなときに何の役にも立たない」

田中
アクセスという会社を始めるきっかけを教えてください。

田端さん(以下、敬称略):
きっかけは阪神淡路大震災です。そのとき東京で保険会社にいました。
震災のとき、故郷の大阪に帰って、すごい光景を見ました。
結構友達とかも亡くしたんですね。やっぱりあの頃は衝撃的でしたからね。
無力な自分に呆れちゃって、
こんなときに何の役にも立たないんだっていうのが、(この世界に足を踏み入れる)きっかけといえばきっかけですね。

2年後、退社届を出しました。

「生きるためにこの人の最後の声を聞く仕事をしたい」

田端
本当になんか、大きな力で動かされた、これをやる運命だった気がして。
自分で計画性持ってやったわけじゃないんですよ。福祉がなんぞやもわかってなかった。

働いてた環境から言えば、似てるんです。保険会社ってその人のライフサイクルにゆりかごから墓場まで関わる仕事だから。

今から25年ぐらい前、当時の保険会社で、本人にがんを告知したら出る画期的な保険が販売された。
日本人って告知しないじゃないですか。
でも海外では告知をして、余生をどう楽しむか、その人に最後の時間を生きる権利を与えるための告知があった。
それが日本でも流行ったんです。
もう自分で人生最後にお金が何千万って入ったら、やりたいことをやろうっていう保険、それ画期的だったんですよね。
生きるための保険っていうのがそれだったんですね。
同じ保険を売るのも、ご本人いなくなってから悲しみのどん底で支払われるのではなくて、生きている時に最後にありがとう、って言ってもらえないと意味ないじゃんみたいな。

保険って死んでから役に立つのが保険だったのが、生きるためにこの人の最後の声を聞く仕事をしたいと思った。
それが阪神淡路大震災の後、介護保険の案が通ったっていうところだったので、まだ準備の段階でした。
措置から契約に切り替えるのが最初の仕事でしたね。2000年の半年前のことです。

「薬剤師のケアマネさんにすごい助けられた」

田端
そのときの第1号のケアマネージャーは薬剤師さんだったんです。大田区の歴史って、審査会の合議体も、薬剤師が多かった。(合議体:介護認定審査会のメンバー定員5名)
第1回目試験を合格したケアマネの人って、医療系の国家資格所有者は薬剤師さんが多かった。当時、薬局って町の一番の相談場所だったんですよね。

ケアマネになるのに5年の実務経験が必要で、まだケアマネ受けられなかったので、5年間は無資格でやってたんですけれども、その時薬剤師のケアマネさんにすごい助けられた。薬で全部その人の様態や健康状態を教えてくれたのに感動しちゃって。処方箋を見れば、患者さんの状態がわかるっていうのは強みですよね。
だからほんと薬剤師さんに助けられましたね、最初。

そこから、その薬剤師のケアマネさんと、一緒に走り出した。
さらに、保険会社時代から医師や看護師の知り合いが結構いたんです。
だから、今振り返ってみるとうまくやれたのは保険会社に勤めていたからだなと思います。
「ちょっと手伝って」って声をかけていった。

当時介護保険できたときは、保険会社も介護に片足突っ込みたくてみんなケアマネ居宅介護事業所の指定を受けたんですよ。今でも残ってますね。

医者と看護師とたまたま薬剤師の友達にケアマネ仲間が揃ってたので、人材には困らなかったです。

「福祉が本当に営利目的の株式会社で成り立つのか」

田中:その人たちにこういうことをやっていきたいんだけどって声をかけて、全員仲間に引き入れて、スタートしたんですね?

田端:そうです。やっぱりその人達に給与を払うために事業をしなきゃいけないなっていうことで、最初は有限会社で起業して、資金繰りをしました。

今はそれが良かったのかなって振り返りになりますけども、やっぱり悩んでますよ、今でも。福祉の民営化って、サービスを競わして良くするっていうのが綺麗に言えばそういうことですけども、福祉が本当に営利目的の株式会社で成り立つのかって、今でも悩んでますよ。
でもやっぱり、この仕事をしたければ、人、物、資金、要るじゃないですか。利益を生む仕事していくしかないじゃないですか。そのためには、良いサービスやれば絶対に生き残れるって、もうそれだけを自分に言い聞かせるように。

「この人を何とかしてあげたいと思ったら自然とサービス生まれてきますよね」

田端
この人どうしよう、自分がまずケアマネにならなきゃっていうのが一つで、
ケアマネになったけども、この人何困ってんだろう、1人で家で暮らせないじゃん。
じゃあ訪問介護とかデイサービスだけじゃなくって泊まる場所もいるじゃんっていうふうに、
1人の人の顧客満足度を追求すると、あれよあれよとサービス増えちゃって。

訪問看護もやったし訪問入浴もやったし福祉用具もやってたし、いわゆる在宅と言われるもの全部やったんですね、
その人に必要だからやっていったんですけれども。

今絞り込んだのが、もう本当に在宅での居宅(居宅介護支援事業所:ケアマネージャーが在籍する事業所)と訪問介護デイサービス(通所介護)っていう3つと、この三つ縦割りになっちゃうから、小規模多機能(デイサービス、訪問介護、ショートステイの複合施設)っていう、4つのサービスが今の落ち着きどころですね。

田中
一人の人に必要なサービスを次々と立ち上げていく行動力とスピード感がすごい。
周囲の支えもあったのではないかと思うんですが。

田端
人にはおかげさまで恵まれましたよね。
あと、スピードですよね。うん。だから誰もついてこれない(笑)

「誰でも福祉の勉強ができるのが福祉住環境コーディネーターだったんです」

田中
それらを次々と正確に立ち上げていくために、物資やお金やいろいろ必要だと思うのですが、どんな風に進めたんですか?

田端
恵まれたんです環境に。本当にやるべくしてやらなきゃいけなかったんだなって思ってるだけ。

一番最初に、自分はケアマネでもないし、どうやって実務経験積もうかなって思ったときに、
福祉住環境コーディネーターっていう資格ができたので、それを取ったんです。
誰でも福祉の勉強ができるのが福祉住環境コーディネーターだったんです。

当時、横浜のシルクセンタービルっていうもともとホテルだったところが廃業して、貸しオフィスになっていたところの一室を借りていたんです。
軍資金がない起業家たちが借りられるところでした。

借りたら、そこは一級建築士なら全員が憧れる人が線を引いたホテルだったらしいんですね。
その中に、病気で歩けなくなった一級建築士の先生がいて、「人にやさしい建物をやっていかないといけない」とおっしゃって、福祉住環境コーディネーターを勧めてくれたんです。

その建物の中に一級建築士がたくさんいたので福祉住環境の講師だらけだったんですよ。

これね私にこの資格取りなさいって言ってるって思いました。
本当に環境には、恵まれてたんです。

今私がどんな試験を受けるにしても、福祉住環境コーディネーターの資格が基本になっています。

ドクターも看護師も知り合いがいっぱいいたので講師はもうこれで建築士が揃ったら全部揃ったので、資格取得の学校、アクセス福祉ビジネスカレッジから始めたんですね。

「マネジメントする人って通訳者だと思うんです」

田中:
とても自然な成り行きで、福祉関係の会社の立ち上げになったのが伝わってきます。

その後、豊富な人材と知識で、いろんなことをやってみて、現在の事業に落ち着くまでの経緯はどのようなものだったのでしょうか。

田端
自分もいっぱいやってみて、20何年も経つと本当にいろんな業者が育ってきたじゃないですか。
だから引き出しはできたなと(周りに)。
あとはそれをコーディネートする人だ。
結局そのいろんな引き出しをネットワーク化するみたいなものが、自分の武器として生き残りかな。

田中:
ネットワークに関しては、所属するところが医療、介護、障害、療育かなどによって、制度も価値観も違うことが隔たりになりがちで、ネットワークの構築が難しくなる気がします。
その制度の壁に切り込んでいっているのが田端さんなんだと思うんです。
以前は保育所が建物内にあったりとか、障害福祉サービスに通いながら、こちらのデイサービスに通所しているかたがいらしたりだとか。
今の現状の課題ってどういうところにあると思われますか?

田端:
私、ケアマネジャーとかマネジメントする人ってコーディネーター、通訳者だと思うんですね。
それぞれ共通言語が使える人がいないといけない

例えば今、大田区って外国人も多いし、ケアマネージャーで中国語話せる人が求められていたりするんですよ。
中国国籍の方に、本当の意味での通訳が必要だったりします。

それと同じように、外国語ではないけど、私達でも一般の方には理解できない業界用語っていっぱい使うじゃないですか。
一般の方に快適に生活してもらうために私達がいるのに、
専門職で業界の中で自己満足してるところがあると思うんですね。
要は普通の暮らしができるための支援者なので、共通言語化する人っていう意味の通訳が必要だと思うんですね。
通訳するにはいろんなところを広く浅く知ってないと通訳できない。

私は、あれもこれもあれもこれも何やってんのってよく言われるんですけども、
私の中で全部繋がってるんですよね。

「この人どうするかを一緒に考える仲間が欲しい」

田端
この後も保護司の集まりにも行きますが、今、罪を犯した人が更生する場所がないんですね。
その人の更生も大事だけど、そうさせてしまった原因が、結構共通してるんですよ。
そこを大事にしたい。

大田区で社会福祉士会の会長をさせてもらっていましたが、社会福祉士って色々なところにいます。
医療ソーシャルワーカーさん、居宅のケアマネージャー、障害者の支援計画を立てる社会福祉士、地域包括の社会福祉士、生活保護のワーカーさん。でもみんな持ってる社会資源が違う
そういうあらゆるところにいるソーシャルワークという中での専門職を、もう繋げなきゃいけない。
共通言語で。

私は後見人もやっています。
うちの従業員が突然病気になって倒れてもう意識不明になったら、
保険関係の様々な手続きをしたくても、雇用主は手が出せない。
後見人を通してくださいということを言われます。
でも後見人の審判開始までに半年近くかかります。
そしたら後見人に自分がなってみて、どこに落とし穴があるのか勉強しなきゃとおもいました。
だから後見人もやってるんですね。

こうして広く浅く、引き出しを多く持つことで、
次にこの人どうしてあげたいか”、に対して、
“この人とこの人とこの人、大集合!”みたいな感じで動けたらいい、それが今の自分の理想です。
そして、私が作りたいのは、“この人どうするかを一緒に考える仲間が欲しい”だけなんですね。

ご利用者インタビューもあります!(^^)/

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